観光業は、世界中の多くの国々で経済の重要な部分を占めています。また、観光に伴う二酸化炭素の排出や、観光客が期待する高水準のインフラ整備が、気候変動の一因となることもあります。メディア・コミュニケーション研究院で国際的な観光や文化について研究しているヨハン・エデルヘイム教授に、複雑に影響しあう気候変動と観光について伺いました。
見過ごされてきたテーマを掘り下げる
観光についての研究を始めた当初、私は観光にポジティブなイメージしか持っていませんでした。しかし私はすぐに、観光には多くのマイナス面があること、そしてこうしたマイナス面の多くが歴史的に研究テーマとして見過ごされてきたことに気がつきました。そこで私は、どうすれば観光が倫理的かつ持続可能な形で行われ、観光地の地元住民や地域社会に利益をもたらすことができるかを研究したいと思いました。
私は大きく分けて3つの分野の研究をしています。1つ目は、メディアは社会と観光にどのような影響を与えるか、2つ目は観光が気候変動に与える影響、そして3つ目は人間と動物の両方のマイノリティの問題です。私はさまざまな学習・教育方法を通じて研究を行っています。社会科学・人文科学分野の研究者として最も関心を抱いているのは、人間の活動と、その活動が生み出す物や影響です。例えば、メディアが作り出す文章や映画、広告などを調査し、それらが視聴者にどのような影響をもたらすかを調べています。
長距離観光は持続不可能
観光には移動がつきものです。観光するためには、人々はある場所から別の場所へ移動しなければならず、移動距離が長ければ長いほど、二酸化炭素排出量は増えてしまいます。観光に悪影響なく二酸化炭素排出量を削減するためには、地元に近く長期滞在型の観光に重点を置くことが不可欠です。観光は地元の要望に基づくことが重要で、起業家や観光客の要望に基づくものであってはいけません。言い換えれば、観光地に住む人々こそが、どのような観光を提供するかを決定すべきということです。
持続可能な観光は目標であり、その責任は行動を伴います。短距離の旅行と長期滞在は、全体として二酸化炭素排出量の削減につながります。スウェーデンのように、長距離観光の負の側面を認識し、遠い地域への観光広告を中止している国もいくつかあります。
観光学における研究と政策の現状
私は観光研究者として、この分野の研究があまりにも素朴に、純粋に産業界に利益をもたらすために行われていると感じています。しかも、このような研究は、成長は善であり、成長は無限であるという考えが前提となっています。問題は、当然ながら、地球上の資源には限りがあるということです。さらに私たちは気候の転換点に達しており、観光研究の現在のパラダイムを変革することが喫緊の課題です。
その一方で、研究の結果を待たずに政策決定が行われています。観光地の多くの自治体が、観光客に炭素税を課すようになり、多くの大学が、研究や会議のために旅行する際、研究者に炭素予算を課すようになりました。私が思うに、最も意義のある進展の1つは、「観光業の気候危機宣言」の取り組みです。この宣言は観光に特化していて、観光を持続可能なものにするという共通の目標のもと、観光業界にかかわる組織や個人が一緒に取り組んでいます。
日本が持続可能な観光をリードするには
日本は世界有数の観光地であり、観光客数は急速にパンデミック以前の記録を更新しています。観光業を本当に持続可能な産業にするために、日本政府ができることはたくさんあると思います。その第一のステップは、年間の観光客総数に厳しい上限を設けることであり、政策決定の過程で自然保護と環境を優先させることです。
加えて政府は、空路ではなく鉄道や海路で日本に来れる中国、韓国、ロシア極東地域からの観光客に長期滞在を促すべきだと思います。そうすれば、旅行による二酸化炭素排出量を大幅に削減できます。もう1つは、日本政府がヨーロッパやアメリカ大陸への観光プロモーションをやめるべきだということです。これは、この地域からの観光客が日本を訪れないということではなく、政府は観光客の移動から排出される二酸化炭素を認め、日本を訪れるインセンティブを与えないということです。
もう1つ大事なことは、飛行機から排出される航空燃料と二酸化炭素に課税すべきです。日本には非常に便利で発達した鉄道網がありますが、税制度が異なるので、鉄道は現在航空会社と競争することができません。鉄道と航空会社の燃料消費量と炭素排出量を同じ基準で課税すれば、鉄道はより現実的な選択肢となるでしょう。
「自然」は社会を構成する要素
国や文化によって自然の定義は異なります。自然と社会の相互作用は重要ですが、「自然」と呼ばれるものは、そのほとんどが人間のために適応されたり創造されたりしたものです。これは自然が存在しないということではなく、人間も自然の一部であるため、自然と人工の区別は明確ではないということです。
自然をどう捉えるかは、個人の生まれ育ってきた背景によります。私の生まれ故郷であるフィンランドは、大都市のすぐ近くに広大な自然があります。それに比べて日本は、公園が「自然」とみなされるほどに都市化が進んでいます。2つの場所を比べると、まったく違う考え方になると思います。そしてまた、「自然」が社会的な定義によって存在し、社会を構成する1つの要素であることをはっきりと示しています。
自然の中では予測不可能な遭遇があります。(今起きている)自然の変化は憂慮すべきものです。特に異常気象や、自然や動物の変化への適応、あるいは不適応といったことです。こうした状況は、二酸化炭素の排出を止め、さらには回収するような変革が緊急で不可欠であることを示しています。
自然は広大です。私の研究は、自然の中に身を置くことが必要で、人間であれ動物であれ、声なき者たちの言葉を代弁する責任があります。私の研究と教育の目的は、他者への思いやりを忘れないことです。
日常を支える哲学
研究は哲学に基づいています。私の研究では、存在論(現実とは何か)、認識論(知識とは何か)、公理論(価値とは何か)といった基礎となる哲学に注目しています。私の研究は、なぜ人々や組織が何かを自分にとって良いことだと認識するのか、つまりなぜそれらがそれらの価値を持つのかを理解しようとしています。また、経済的価値、社会的価値、精神的価値など、価値観のカテゴリーについても深く掘り下げています。私たちは意識的であれ無意識的であれ、自分の価値観に基づいて生活しています。ですから、哲学的な観点から価値観を理解することは不可欠です。
文:Sohail Keegan Pinto
翻訳・再編:齋藤有香
2024年5月7日公開